2017年07月20日

一首鑑賞:前川佐美雄「声もこそせねわれをささふる」

いくたりか身近にひとら死にゆきて声もこそせねわれをささふる
前川佐美雄『天平雲』


 前川は特にキリスト教の信仰を持っていたわけではないようだが、『捜神』という歌集も出しており、広い意味では「求道者」のうちに数えられるであろう。故郷の自然の風物の背後にあるものを感じ取りながら、多くの歌を編み出していった。首掲の歌もそうした系譜に連なるものと言えよう。
 2015年度から韮崎教会では、昇天者を憶えて祈祷を捧げるようになった。私は初めこれをどう受け止めたら良いか分からず、その戸惑いをFEBCラジオの聖書通信講座のメールの中で触れた。すると係の方は、「私たちがこの地上でささげている礼拝は、やがて天でささげる礼拝の先取りです。礼拝の中で昇天者を憶えて祈るということは、単にご遺族への慰めというだけではなく、いえそれ以上に、やがて復活の日にささげる礼拝、その時にはすでに召された方々も復活して共に主イエスを礼拝することを憶える意味があるのではないでしょうか」とお返事くださり、私はその時ようやくストンと腑に落ちたのだった。
 前川のこの歌に似た心情を、故・高岡伸作牧師も「掌詩」として記している。二編ほど引く。

    先に逝った者と
    過ごすことが
    多くなった
    急がなくていい
    温もりのひと刻(とき)


    一人でいると
    ふと傍に
    来てくれている
    彼ら逝きし者の
    穏やかな友情


 最近は私自身も人生の折り返し地点といった年齢になり、以前より自分の先々の見通しが利くようになってきたと感じる。そのこともあるからだろう、いずれ自分も天に召されれば、母教会の時の友達と会えるのだろうかとか、韮崎教会に転入会して間もなくの頃は親しい交わりがありながら後に少し距離ができたまま先に逝かれたNさんと、また話せるのだろうかとか、時折つらつらと考える。そればかりでなく、今まで直接話したことのない信徒や、時代の異なる信仰の先達にも天で顔を合わせ、主を共に礼拝する恵みが与えられていると思うことは、この地上の生活においても大きな慰めである。

文責 Y.K.  
posted by 韮崎教会 at 15:54| 一首鑑賞 | 更新情報をチェックする