2018年01月25日

一首鑑賞:岡野大嗣「消しゴムも筆記用具であることを」

消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか
岡野大嗣『サイレンと犀』


 一見ちょっと大仰な言いぶりでユーモラスな雰囲気もあるが、その実とても真摯な叫びが込められている。
 消しゴムはそれ自体、書く道具ではない。だが、鉛筆やシャープペンシルで書く際には欠かせない筆記用具だ。もしこれが修正液だったら、下の句の「希望と呼んではおかしいですか」に託された含意が半減してしまうに違いない。修正液は、間違いの上から塗り潰すだけで、間違った箇所そのものを消し去るわけではないからだ。
 この歌を読んで、イザヤ書43章25節がパッと思い浮かんだ。

  わたしこそ、わたし自身のために あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。(口語訳)

 神様は、人の罪を消し去ると言う。それも、跡形の無いかのように。この大きな愛は、コリントの信徒への手紙 一 13章5節の英訳(NIV)で〈…it keeps no record of wrongs.〉(愛は悪を記憶に留めない)と書かれている愛そのものだろう。
 私達が自己中心に振る舞って人に迷惑をかければ、たとえ反省し悔い改めたにしても、人間関係に何らかのしこりを残す。この点で、神様と人間は全く異なる。
 生きることは、毎日毎日を何かに綴っていくようなものである。その歩みにおいては、大きな過ちをおかすこともある。神様は私の咎を消して下さると、御言葉は語る。あたかも消しゴムで綺麗に拭い去って下さるかのように——。
 復活の主イエスは、三度イエスを否認したペトロに「わたしの羊を養いなさい」と繰り返す(ヨハネによる福音書21章12〜19節)。このイエスのペトロへの呼び掛けについて、服部修牧師は「失敗した自分にこだわるのではなく、外に向かって愛するよう招く言葉」と記している(『信徒の友』2017年3月号)。
 過日、私も大きな過ちをおかした。礼拝堂の席に座っているのも居た堪れない心地が長く続いた。そんな私に主が語りかけて下さった御言葉は、ペトロの手紙 一 4章8節の「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」だった。

文責 Y.K.  
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2017年10月19日

一首鑑賞:横山未来子「ここにをらぬ人のためにも祈りゐるこゑを」

ここにをらぬ人のためにも祈りゐるこゑを聴きをり小さき部屋に
横山未来子『午後の蝶:短歌日記2014』


 『午後の蝶:短歌日記2014』は【ふらんす堂】のホームページに2014年の一年間に掲載された、一日一首の横山の短歌とそれに添えた一言二言の文をまとめた日記型の歌集である。掲出歌は10月9日付けの歌で、次の小文が付されている。

  昨日は「三浦綾子読書会短歌部門」の日だった。参加者は私も含めて七人。テキストは、小説『ひつじが丘』。約二十年ぶりに読んだが、ストーリー展開がドラマチックで引き込まれた。

 読書会には、クリスチャンが多く参加していただろう。会の初めに、今回欠席したメンバーのためとりなしの祈りをしたのではと思われる。あるいは、義の道に餓え乾き三浦綾子の本に手が伸びた、名前も顔も知らぬ誰かのためにも祈ったのかもしれない。私達が信仰へと導かれ、また守られていく陰には、実はそうした祈りの支えがある。
 『ひつじが丘』では、牧師夫妻の娘である主人公が親の反対を押し切って、身持ちのあまり良くない画家の男の許へと駆け付け、その後どうなっていくかの顛末が綴られる。家出以来実家に何の音沙汰もなかった彼女がいつか帰ってくることもあろうと、両親は夜中も施錠せず娘の帰りを待ちわびた。その間おそらく毎夜、夫婦は娘のため、そして娘の夫となった男性のために祈り続けた筈だが、小説中に直接は描写されていない。
 二年四ヶ月後、娘はあるきっかけで二人住まいを抜け出し、夜中に実家へ帰り着く。日頃の憔悴から泥のように眠った主人公が明くる日の昼近くに目覚めると、教会を忌避していた夫が彼女を追って家に来ていた。不摂生がたたって血を吐いた彼は、牧師夫妻のお世話を受けるようになる。そうして居候しながらも彼は一度も教会堂に足を踏み入れることはなかった。けれど、牧師夫婦の温かさに触れて暮らすうちに、アルコールも断ち、いつしか心の毒気も清められていく。クリスマスイヴの夜、以前の女性関係を清算するために出かけた彼は、帰り道に凍死という形で息絶える。イヴに主人公に贈ろうと彼がコツコツ制作していた絵は、十字架上のイエスと主を見上げる彼自身を描いたものだった――。

 横山らが読書会の席で実際に祈ったことを私は先に想像した。だがこうして『ひつじが丘』の筋を辿ると、牧師夫婦が主人公の家出以降、またその夫君と思いがけず共に暮らすようになってからも、続けて彼のために祈ってきた声を、会の小部屋にありありと「聴いた」のだと取ることも可能だろう。
 とりなしの祈りをしながら、私達は雲を摑むような思いに捕われることがある。そんな時でも「主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(詩編34編16節)という主の約束を覚えつつ歩んで行けたらと願う。

文責 Y.K.  
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2017年07月20日

一首鑑賞:前川佐美雄「声もこそせねわれをささふる」

いくたりか身近にひとら死にゆきて声もこそせねわれをささふる
前川佐美雄『天平雲』


 前川は特にキリスト教の信仰を持っていたわけではないようだが、『捜神』という歌集も出しており、広い意味では「求道者」のうちに数えられるであろう。故郷の自然の風物の背後にあるものを感じ取りながら、多くの歌を編み出していった。首掲の歌もそうした系譜に連なるものと言えよう。
 2015年度から韮崎教会では、昇天者を憶えて祈祷を捧げるようになった。私は初めこれをどう受け止めたら良いか分からず、その戸惑いをFEBCラジオの聖書通信講座のメールの中で触れた。すると係の方は、「私たちがこの地上でささげている礼拝は、やがて天でささげる礼拝の先取りです。礼拝の中で昇天者を憶えて祈るということは、単にご遺族への慰めというだけではなく、いえそれ以上に、やがて復活の日にささげる礼拝、その時にはすでに召された方々も復活して共に主イエスを礼拝することを憶える意味があるのではないでしょうか」とお返事くださり、私はその時ようやくストンと腑に落ちたのだった。
 前川のこの歌に似た心情を、故・高岡伸作牧師も「掌詩」として記している。二編ほど引く。

    先に逝った者と
    過ごすことが
    多くなった
    急がなくていい
    温もりのひと刻(とき)


    一人でいると
    ふと傍に
    来てくれている
    彼ら逝きし者の
    穏やかな友情


 最近は私自身も人生の折り返し地点といった年齢になり、以前より自分の先々の見通しが利くようになってきたと感じる。そのこともあるからだろう、いずれ自分も天に召されれば、母教会の時の友達と会えるのだろうかとか、韮崎教会に転入会して間もなくの頃は親しい交わりがありながら後に少し距離ができたまま先に逝かれたNさんと、また話せるのだろうかとか、時折つらつらと考える。そればかりでなく、今まで直接話したことのない信徒や、時代の異なる信仰の先達にも天で顔を合わせ、主を共に礼拝する恵みが与えられていると思うことは、この地上の生活においても大きな慰めである。

文責 Y.K.  
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2017年04月28日

一首鑑賞:河野裕子「食べたくなくて料理本二冊がほどを」

食べられず食べたくなくて料理本二冊がほどを寝ころび眺む
河野裕子『蟬声』


 河野裕子は2010年夏、乳がんの闘病の末、逝去した。享年64。早すぎる死を多くの人が悼んだ。河野は生前、研究者の夫を支える主婦として台所に立っていた。それゆえ厨歌(くりやうた)や食にまつわる歌を幾つも詠んでいる。遺歌集として刊行された『蟬声』においてもそれは例外でない。掲出歌の他にも少し引く。

  食欲ももはや戻らぬ身となれど桶いつぱいの赤飯を炊く
  食へざる苦、誰にもわからねば歯をみがき眠るほかなし 眠る
  砂丘産小粒らつきようの歯ざはりをしばらく思ひ長く瞑目
  もう一度厨に立ちたし色とはぎれよき茄子の辛子あへを作りたし


 私事だが、私の父は食道がんで亡くなった。癌が発見された時には食道の入り口がかなり狭まっていて、一般的なサイズの内視鏡が入っていかず細径のスコープで検査されたが、それでも戻してしまう程だった。手術するには病状が進行しており、抗癌剤と放射線治療が施された。二、三度入院して治療したが、家で療養している期間もあった。そんなある日の未明、私がトイレに起きると父は居間でテレビを観ていた。画面には美味しそうなご馳走が大写しになっていた。父の食事は既に流動食のみ。私は、食べられないのにそんな番組を観たら辛いだけだろうに…とその時は思ったものだ。
 河野の遺歌集を私が手にしたのは、それから四年ほど経過した頃のこと。食べられない痛苦が率直に詠いあげられていて、虚をつかれた。そして、食べることはただ腹を満たすだけでなく、食べものを噛み砕く歯触り、飲み込むときの喉が鳴る感じなど、一つ一つの過程に喜びがあるのだとも思い知らされた。
 旧約聖書のコヘレトの言葉3章12~13節に次のように書いてある。「わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と」。
 父を見送って半年後、私自身も乳がんが見つかり、手術、抗癌剤、放射線治療…と怒濤の治療生活へ突入していった。過日晴れて五年目の検査をクリアし、今は経過観察中となった。振り返って、私の命が繋がったのは当然でないことを改めて感じる。そして、飲み食いして満たされることが神の賜物だという御言葉の真実さを思うのである。

文責 Y.K. 
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2017年01月17日

一首鑑賞:米川千嘉子「黙すため語らむとせり」

黙すため語らむとせり渇くためうたはむとせりどの記憶にも
米川千嘉子『吹雪の水族館』


 米川は茨城在住の歌人である。歌集『吹雪の水族館』のあとがきには次のように書かれている。

 前歌集『あやはべる』には東日本大震災、福島第一原発事故から一年までの作品を収めた。今思い返せば、それでもまだ当時は、その後についてもう少し明るい可能性を考えていたような気がするが、残念ながらそうはならなかった。さらに、平和のゆくすえについて若者の現状と未来について、自然について、さまざまな不安と混沌が増し、そういうものが、激しく日常にしみこんでくる二年半余だったと思う。

 その言葉の通り、『あやはべる』の緊迫感に満ちた震災詠は、最新歌集『吹雪の水族館』には日常と絡みつく苦渋としてより深度を増した形で時々立ち現れる。
 掲出歌は、直接に震災のことを詠った一連に含まれているわけではないが、震災の影が通奏低音として流れているのを感じ取ることができる。聖書に親しんでいる方々には、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」で始まるコヘレトの言葉3章の御言葉の、7節「…黙する時、語る時」のくだりを思い浮かべた人もいるだろう。

 2011年3月11日以後、巷には震災詠が溢れ返った。被災された方々のみならず、テレビから映し出される震災の惨状に釘付けになって激しい無力感に苛まれた人達によっても、歌は生まれていった。それらは、目前の事態に絶句し打ち震えるがために、そしてその事実を真摯に向き合うために、「語ら」ずにはいられなかったものだったのではないか。

 『あやはべる』からも一首引こう。 

二〇〇〇〇にも近きいのちを津波のみ三〇〇〇〇の自死者をのむものはひそか

 東日本大震災からまもなく六年。余震はなお続いている。九州の大地震の傷跡もまだ生々しい。その前にあっては、どんな言葉も空々しく響くだけかもしれない。だがしかし。この苦境を黙しつつ受け止めていくために、必死に生き継いでいくために、「語る」あるいは「うたふ」ことが一縷の望みをつなぐのであれば…。

文責:Y.K.  
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2016年10月29日

一首鑑賞:古谷智子と岡井隆のキャロリングの歌

をとこにもをんなにもあらぬ声に子ら歌ふ聖夜灯せる門を巡りて
古谷智子『神の痛みの神学のオブリガート』


 昨年、初めてクリスマスイヴのキャロリングに参加した。イヴ礼拝には以前一度だけ出席したことがあったが、何しろ就寝前に服薬があるという身分、その時は礼拝が終わるや否やそそくさと帰路に就いていた。
 そんな消極的だった私の肩を押すきっかけになったのは、首掲の歌と共に次の一首を目にしたことだ。

声変りしつつある故唱へぬをあはれがるころキャロルは終る/岡井隆『宮殿』

 イヴ礼拝後20分ほどお茶の時間を持ち、それから連れ立って駅へ。到着してみると、何と大人から子どもまで30人近くの顔ぶれがあった。まず「もろびとこぞりて」で元気よくキャロリングを開始。だが、曲が終わっても電車が到着しない。予定よりも電車が遅れていたようで、次の「きよしこの夜」を歌っている最中にそうアナウンスが流れてきた。「きよしこの夜」なんてよく知っている曲と思っていたが、案外アルトのパートが難しい。大所帯のこちらとあちらでだいぶ音程に開きがあるような不協和のハーモニーが響いていて、後半はちょっと歌えなかった。「あらのの果てに」を歌い始めても人影はまばら。「電車来ないねぇ」などと言っていると、私の右隣で歌っていた男の子が「電車過ぎて行っちゃったよ」と一言。そのままでは締まりが悪いため、もう一度「きよしこの夜」を賛美。一人よく通る声の歌の上手い子がいたが、教会学校の親御さんに訊くと、最近教会に来始めた子だという。普段私は教会学校の親子との接触が少ないので、なかなか新鮮だった。とりあえずその場はお開きになって、一行は近所のS病院へ向かった。私はお暇して車を置いてある駐車場へと歩き始めた。その道々、「♪主は来ませり~、主は来ませり~」と歌声が聴こえてきて何ともほのぼのとした気持ちになった。まあ、一番大きかった声の主は牧師だったが(笑)。
 後で聞いた話では、その日のキャロリングはS病院で歌い納めにしたらしいが、過去には病気療養中の信徒のお宅を訪問して歌ったこともあったそうで、それはご本人にもご家族にも心温まるひと時だったようだ。「をとこにもをんなにもあらぬ声」…(昨年のキャロリングに参加した多くの子供達はちょうどそんな年格好だったが)、病に臥せっている方にとって子らの歌声はまさに天使の声のように響いたことだろう。一年前のイヴの夜も、上手く歌えなかったり、色んな雑多な想いを含めながら、キャロルは終わってしまった。でも、心に何かぬくもりを残して過ぎた時間であったことは紛れもない。

文責 Y.K.  
posted by 韮崎教会 at 06:53| 一首鑑賞 | 更新情報をチェックする

2016年07月28日

一首鑑賞:小島ゆかり「神は人をあるいは人は神を得しゆゑに」

神は人をあるいは人は神を得しゆゑに苦しからんか 雲よ
小島ゆかり『ヘブライ暦』


 小島は三十代の半ば、先に単身渡米していた夫のもとに子供達を連れて赴いた。『ヘブライ暦』には、東海岸ボルチモア郊外に住んだ二年間に作られた歌が多く収められている。
 歌集題から察せられる通り、ボルチモアでの生活は小島にユダヤ人社会との接触をもたらした。その中で生まれた情感は、戸惑いに類するものが少なくなかったようだ。ユダヤ教徒の友人達の立ち居から見えてくる「イスラエルの神」は、小島にとっては時に理解の及ばないものであったらしく、嘆息のような首掲の一首を詠んでいる。
 神学者の北森嘉蔵は『聖書百話』においてノアの物語に言及する。神は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪い事ばかりであるのを見て、「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」たとある(創世記6章5~6節 口語訳)。北森は主著『神の痛みの神学』で、「神の愛が罪への反応として現れるとき、それは神の怒である。しかるに神はこの怒の対象たる我々を愛し給うた。かく怒を克服せる神の愛こそ神の痛みである」と述べ、イエス・キリストの十字架刑は「罪人に死を命じ給うべき神とこの罪人を愛せんとし給う神とが闘った」ことと結論づけている。
 小島の歌に戻ろう。神は人を造り出したために苦しんだ――これは聖書通りの神様の姿である。しかしおそらくは日本の伝統的な価値観の内にいる小島の目には、ユダヤ人を傍から見て「人は神を得しゆゑに苦しからんか」とも映っているのだ。――完全な義の神であるがゆえに我々を見て痛み苦しむ神を、神として仰ぎ見るがゆえに人は苦しむのではないか――。だが、小島の歌は問いかけとも逡巡ともつかぬ形に留められている。それは、「自由や平等や未来や、世界や個人のこと」を真剣に考える機会を与えてくれた、宗教の違う友人達の信仰と暮らしに、豊かさ、まぶしさ、そして幾分の矛盾――を小島が感じたからであろうことが、あとがきから読み取れる。
 果たして私達自身は、神からの喜びを証しする生き方ができているだろうか。

文責:Y.K.  
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2016年04月29日

一首鑑賞:さいとうなおこ「教会より届く手紙の」

少女の日に通いし丘の教会より届く手紙の文字変りたり
さいとうなおこ『キンポウゲ通信』


 この歌を読んだ瞬間「あっ」と思った。教会にかつて通い、今は諸事情で遠ざかっている人にも、たまに教会から送られてくる郵便物は、何らかの印象を残していることが分かったからである。
 2014年度初頭の教会の年度主題研修会で、教会入り口付近の掲示などを充実させ、通りすがりの方にチラシ類もお持ちいただけるよう整備しようという案が出た。それを受けて独自の『韮崎教会だより』の発行を思案していたが、少し前に図書館で借りていた某短歌入門書を読んでピンと閃いた。信仰などにまつわる短歌の一首鑑賞を書いて、『教会だより』に載せようと思ったのだ。そうなると、次々アイディアが湧いてきた。A4の紙を半分に折り、表紙には聖句とそれにマッチした扉絵を、裏に返すと教会の三ヶ月間の主な予定を掲載してはどうか、中身は【牧師からのメッセージ】【一首鑑賞】、それに様々な教会員による【私の好きな聖句】を載せてはどうだろう…。
 実は【私の好きな聖句】は私のオリジナルの発案ではない。高校時代、私は首都圏のキリスト教主義学校に通い新聞部に所属していた。部で発行していた学校新聞に、各号違う教師にお好きな聖句をお伺いするコーナーがあったのだ。その学校で教鞭を振るわれていた先生の中には、韮崎教会で信仰を育まれた方もいる。教会の120周年記念誌にその先生からの寄稿があったことには心底驚いた。かつて先生の授業中、私は受験のための通信講座の「内職」をしていたのが見つかり、先生とその教材の奪い合いになったことがあった。結局先生に力ずくで取り上げられ、後で職員室に来るように申し渡された。仕方なく職員室に行くと、先生は軽く注意なさっただけで教材を返して下さった。
 この『教会だより』は、かつての週報に代わって今もその先生に送り届けられているはずである。高校受験に失敗してあの学校に行っていなければ、キリスト教主義大学の指定校推薦を取ることもなかったし、後に洗礼を受けることもなかったであろう。そしてとある病気を患って山梨に移り住むようになっても、韮崎教会に通うことにはならなかったに違いない。
 掲出歌の「手紙の文字」は、週報や教会だよりを送る封筒の宛先などの筆跡だろうか、あるいは封入された一筆だろうか。『韮崎教会だより』も新しい号ができ上がると、次の委員会で最近の新来会者の方々に送ることにしている。宛名は委員が手分けして手書きする。さいとう氏のようにその方々にも、何か心に届くものがあることを願いつつ。

文責:Y.K.  
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2016年01月21日

一首鑑賞:河野愛子「亡き後に恋しさおそふ」

亡き後に恋しさおそふ人間のつみと臥しをり春吹雪せり
河野愛子『反花篇』


  掲出歌の前後には、次のような歌が並ぶ。

  父も弟も死顔をもて括りつつ墓苑はほのと春立つ梢
  わが言葉のするどきを責むる人の言葉もするどしや野に入日落ちつも


 とすれば、亡くなった人というのは父親や弟と考えるの順当なところだ。身内の死後しばらくを経てから故人について色々思い出して遣る瀬ない心持ちになるのは、ある程度の年齢に達すれば避けようのないことなのかもしれない。
 私は諍いの絶えない家庭にあって、父と反目しながら暮らしてきた。だから、父亡き後ふとした時に父に対する後悔の念が湧いてくるということは全くの想定外だった。くよくよと思い返すことの一つは、キャスター付きのパソコンデスクの組み立てが自分では上手くできず、群馬と山梨を行き来し忙しくしていた父に面倒をかけてしまったことである。もう一つは、私が持っていたVHSのビデオテープをDVDに変換したく、ブルーレイのレコーダーしか持ち合わせていない父を煩わせてしまったことである。しかもその時は、父は食道がんの治療中でかなり体力を消耗していた。だが、それらの面倒に対して私は父に十分感謝しただろうか…。掲出歌にある「人間のつみ」といったものは、私の場合はこういうことであった。
 話を河野の歌に戻そう。河野もまた父や弟との間で言い争いがあったのだろうか。お互いに裁き合って、とげとげしい思いを抱えて日は没した。結局、父や弟との関係は未修復のままに終わったようだ。このことについて私は一言を呈することはできない。ただ、この河野の悔いも、また父君や弟さん自身の心も神様が受け止めてくださることを信じて祈るばかりだ。最後に聖句を引いておく。

 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。(詩編51編19節)

文責:Y.K.   
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2015年07月21日

一首鑑賞:竹山広「深仕舞ひせるかなしみ」

深仕舞ひせるかなしみを取り出だすごとくに語るカメラに向きて
竹山広『空の空』


 竹山は長崎で代々キリスト教を奉じてきた家系に生まれた歌人である。長崎への原爆投下で被爆した。実は彼は1945年の春から結核を患って入院しており、折しも8月9日は退院の予定となっていた。迎えにくるはずの兄を待ちながら他の患者と雑談していた竹山は、飛行機の急降下するような音に咄嗟に近くのベッドの下に頭を突っ込んだという。ピカッという閃光の後に押し寄せた爆裂波がやや静まってから、二階より階下へ、そして外へと逃げ出す途上、目にしたのはまさに地獄であった。

血だるまとなりて縋りつく看護婦を曳きずり走る暗き廊下を『とこしへの川』
這伏(はふふく)の四肢ひらき打つ裸身あり踏みまたがむとすれば喚きつ『〃』
水を乞ひてにじり寄りざまそのいのち尽きむとぞする闇の中の声『〃』

 翌日、竹山は兄を捜しに行く。兄は隣の人が防空壕を掘るのを手伝っていて被爆、顔半分と背中全体が火傷を負っていた。兄は8月15日に亡くなる。逃げる道すがら大火傷を負い水を求めて息絶えていった幾人と同じように、衰弱していく兄もまた水を欲した。だが「水を飲ませたら死んでしまう」という噂が流れていたため、竹山はこれを固辞する。後年、そのことを彼は悲しみをもってこう振り返った。

欲る水をいくたびわれは拒みしか愚かに兄を生かさんとして『眠つてよいか』

 しかし竹山が原爆を歌に詠めるようになるのは、敗戦から十年経ってからである。目に焼きついていた一人一人の死に様を詠おうとすると、そのシーンの夢に二晩、三晩と苦しめられたためだ。竹山は詠うこと自体を長く放棄した。十年後、竹山は喀血を起こして入院。余命わずかなことを告げられたが、特効薬のストマイが効いて奇跡的な回復を見せた。それから原爆詠に取り組めるようになったという。
 彼は、被爆体験そのものを掘り起こす以外にも、原爆忌の式典や反核の運動に参加しての歌も繰り返し詠っている。

地位高き順に献ぐる花束のひとつひとつをわれは目守りぬ『とこしへの川』
白髪を風に乱して坐りゐるわれをまぢかに撮りゆきしひと『葉桜の丘』

 冒頭の歌もまたそれらの一つである。テレビカメラを向けられて、心の奥底に深く閉じ込めている悲しみの蓋を開けてポツポツと語る――。終戦70年を迎える今年、この重い証しの歌に改めて耳をそばだてたいと思う。

文責:Y.K.   


*参考文献:三枝昂之編『歌人の原風景:昭和短歌の証言』(本阿弥書店)
posted by 韮崎教会 at 11:26| 一首鑑賞 | 更新情報をチェックする